昭和46年04月18日 朝の御理解
御理解 第83節
「一年に分限者になるような心になるな。先は長いぞ。一文二文とためたのは、みてることはないが、一時に伸ばしたのはみてやすい。神信心をすれば、我慢我欲はできぬぞ。ぬれ手で粟のつかみ取りの気を持つな、人より一年遅れて分限者になる気でおれ。」
人より一年遅れて分限者になる気でおれ、結果はどう言う事になるかというとね、人よりか一年遅れるどころではない。それこそ本当のおかげというものは、例えて申しますならば、私どもの小学校の時の友達が、四十人くらいいたでしょうかね。どうでしょうか今は、十何人かでしょう、という程に減っております。亡くなりましたり、戦死しましたりですね。真面目で頭も良し、人の信用も篤か。
又中に商売人では商売も上手なと、この人は良い商売人になるじゃろうと思っておったし、皆が期待して追った様な人達が大した事はない。私の様に何も出来なかったものが、私共が今四十人友達がおった中で私が一番先に分限者に鳴った様な気がする。これは私の友達だけではない、学校友達だけじゃない、私の商売友達もそうです。お商売させて頂いて、どこよりも早く良か店を持ちたいとか、うんと儲け出そうと思うて競争し合っていた時代の事を思って、成程立派な店を持って儲け出している人達もあります。
今久留米の一流の酒屋さんは、私が酒屋の小僧時代、番頭時代に、一緒に矢張り番頭やら小僧やらしていた人達ですけどね。どっちが一番儲け出したかというと、私が一番儲け出した感じ。儲け出したと言う事はね、沢山金を貯めたとかと言う事じゃないのです。いわゆる分限者と言う事です。一年で分限者になるな、分限者、分限者というものはもう限りない幸せに恵まれるというか、限りない財なら財に恵まれると言う事。
それが分限者、使うたらなくなってしまう財産を、皆貯めとるか知れませんけれども、私のは使うても使うても金が減らない金百両と言う様な意味においての分限者。そうすると人より一年遅れるとかね、そういう心持ちとか、そういう気にならせて頂いたら、誰よりも早く分限者になれることがわかります。そこでここのところの大事なところはどこかと言うと、「神信心すれば我慢我欲は出来ぬ」とこう仰せられとる。少しでも儲けようとするため、我慢我欲をする。
それこそ人の茶碗でも打ち落としてでも自分が先になろうとしたり、余計儲かろうとしたり、だからね、私どもが信心させて頂いて、どう言う事にならねばならないかというとです、我慢我欲をせんで済む私にならしてもらはにゃならんと同時にです、濡れ手に粟のつかみ取りになるような気持ちはもう更々なくならにゃいかんです。まあ百万円の宝くじどん買う、今時百万円の宝くじじゃないでしょうね、何百万円でしょうか。宝くじどん買う気でおる間は絶対おかげを受けられんと思って間違いない。
本当のおかげは、それこそ人より遅れるどころか、もうあがきたがきしてからでも、おしのけてからでも、もう早く金持ちになろうとか、分限者になろうとか、とかという考えのある間は、まずまず分限者になる事は出来ないでしょう。よしそれがね、まあ百万円の宝くじなら宝くじに当ったと致しましょうか。まあもし一生懸命働いて金持ちになったと致しましょうか。もう増々我慢我欲が強うなる。不思議なもんです。これはもうお金ならお金が、例えば百万貯まったら、どうでんこうでん五百万貯めようと。
五百万貯まったらどうでもこうでも一千万円。もうますますけちん坊になる。言うならば我慢我欲で儲け出そうとする。儲け出さんならん為に人より余計に働く。儲け出さにゃならん為に人の食べるものも食べきらんで貯める。貯まりゃ貯まったでいよいよその気は強うなる。そしてそう言う様な、矢張りここでは財という意味で絞りますなら、そういう意味で、財のおかげを頂いたらですね。
いよいよ欲は大きくなって膨らんで来ますね。そして一つ間違うて、それが使う段になったら、それこそ石垣を崩すようになくなってしまうでしょう。ですから私共がねこういうところに本気で取り組まして頂いて、我慢我欲の心を取り除かせてもらう。濡れ手に粟のつかみ取りのような心を取らせてもらう。そういう中にいよいよ信心の有難さが分ってくる。それが徳になり力になる。
お金は欲しいとも思わん。物を沢山貯めこもうと思わん。そう言う事に信心によって、いわゆる信心の一番の願いであるところの、神様の願いであられるところの人間がまず助かるということは、心から先に助からねばならん。その心の助かりを願わずして、言わば金とか物とかによって、また健康なら健康だけ、によって助かろうとする様な信心の間は、本当のおかげになって来ない。
健康の上にも経済の上にも、よし健康になっても経済の上におかげを頂いても、そういう考えで健康になったり、貯め上げたものは、却って健康のためにおかげを落とし、却って貯まったお金のために大変な苦しい目に合わなければならないことにしかならない。まず皆が本気で心が助かることを願わねば駄目です。心が助かってそしてその後にです、神様が限りなく恵んで下さるのです。健康の上にも、経済の上にも、すべての点に、神様が恵みに恵み続けて下さるおかげ。
言うならば、使うても減らぬ金百両と言う様なおかげを頂かしてもらうと言う事。これはね、一年遅れるどころか、例えば一生の間にね、あぁあの人は商売上手じゃから儲け出さっしゃろうという人が儲け出していたに致しましても、私位にゃ儲け出してはおらんくらいな感じがする。儲け出しとらんちゃ何です。分限者にはなっとらんように思う。してみると、人より一年も二年も遅れるどころか、もう一番先頭に立って行ける程しのおかげが受けられる。
人を掻き分けることもいらなければ、人を陥れることもいらない。相手とも競争することもいらない。そういうおかげが受けられる。信心しよってから、人より一年も遅れてから分限者になる気になれと。信心すれば我慢我欲が出来んぞと。その我慢我欲がなくなって、とにかく人よりか一年遅れて、さあ皆さんお先にどうぞという心持ちにならせて頂く、そういう心持ちにならせて頂くことを、大切にしなければならないかと言う事がここで分かるのです。
どうぞ金銭のお繰り合わせ頂かんならんから、一生懸命おかげ下さいおかげ下さいと言って願っても、よしおかげを受けても、そのおかげは決して望み続けられる与え続けられるものにはならない。そこで、私どもがいよいよ我慢我欲をせんで済む私。人より一年遅れて分限者になるような心持ちが、果たしてお互いの信心の中に、段々出来て行きよるかどうか。これはまあ私のことですけどね。福岡の修行時代に一番最後のところでは、もう四畳半の畳も敷いてはいないそういうお家でした。
雨が降りゃだだ漏りがする。親子三人の者が隅の方に押し固まって寝らなきゃならんといったような時代。私はね「もう神様これ以上の家に住もうとは更々思いません」というのが私の偽らざる心でした。今こそこういうあばら屋に、それこそ小屋のような家にども住んどるけども、将来は御殿のような家にでも住まわにゃならんからという、そういう心は更々ありませんでした。もちろん百万長者になろうとも思わなかった。
もう本当に自分が助かることの喜び、その自分の助かりが人の助かりにつながって行くという、そのことだけが唯一の楽しみであり、有難いものであった。そう言う様な心がどういう信心から生まれたであろうか。そこは皆さん研究してもらわねばいかん訳です。そういう心持ちにならせて頂いたらです、どうでもこうでも立派な部屋に置かねばいかん。立派な家に住まわせにゃおかん。それこそ御殿のような家に。
この頃ある方が参られて見えられてから、合楽にはそれこそ立派な御殿のような家が建っとるが、中に一ぺん入ってみたいと思いよったら、あるチャンスにここに寄らせて頂いたら、外から見るよりももっと立派であったと。それこそ御殿のようなお家と言われたくらいあったと。そういう御殿のようなお家にしゃっちむっち住まわにゃならんごと神様が仕向けて下さった。
私は二十年前のそれこそ畳の敷いてない四畳半のお家でも、これから以上は望まない。一生食物はお粥さんでいい、ただ子供達や親達にただ願いとする所は、腹一杯食べさせられるならこれが一番の幸せだと。私は今のままで良いとそんな思いでしたよ。ですからもう本当にここでは茶粥が時に出ます。お客さんのない時には必ずお粥ですが、この頃のごと毎日お客さんが続いとりますから、この頃お茶粥も余り食べ出しませんけど。けどもこういう生き方はこれは私一代じゃない、孫子の末まで一つ続けてほしい。
私昨日、合楽会でしたから、合楽会でも申しました。今廊下に白いビニールをかぶせてから、長い廊下に置いてあるのは、全部あれはお酒なんです。それこそ私が一生かかったっちゃ飲めない程しの沢山のお酒がです、あるけれども、自分からお酒を頂こうとは思わん。今日は一本付けんかと言うことはない。お米でもこれだけ沢山お米を頂いておりますけど、なら沢山上がるけん、二度三度食べるごとしようじゃないかと言う事は言いもしなければ思いもしません。
やはり家で修行するならば、まず二食修行に耐えられる人、またはお粥さんの食べられる人でなければ、ここでは修行は出来ぬというのがここの建前であります。ですからね、もうこの男にはどれだけ米をやっても良い、どれしこお酒をやっとったっちゃお酒で失敗することはないと思し召すから、神様が限りなく恵んで下さるのである。それを私は分限者と言う。これは酒だけのことではありませんよ、お米だけのことではありませんよ、お金もそうですよ。限りがない。
ちょうど御本部に参拝する前でした。思いがけないお金を五十万出させて頂かんならんことが起こった。そこで私が、この頃全然自分でお金をあたりませんですからね。繁雄さんが受け持っとりますから、これはどうでも、だから五十万は余分に出さなければならんお金ですから、繁雄さんに話しておりました。これはいつも成程ここの場合は、五万ちゃ五万、十万ちゃ十万足りんところはですよ、足らんち言いよると、キチッとおかげを頂くとは恐れ入ってしまうと言うて。
今度のとはいくら親先生でも、五十万とか何とか、たった後二日くらいしかないのに、そげなこと出来るはずがなかろうとこう思うとった。ところがその日になったら、ピシャッとある人が、わざわざ今私が五十万いるとも何ともなぁも知らん。五十万出したことも知らない人が、おかげを頂いたと言うて、キッチリ五十万円お供えがあっとった。もうこれには私は恐れ入ってしもうたちゅうてから、昨日繁雄さんお話しになっておられました。これは決して五十万円のことじゃありませんよ。
それは百万でも、三百万でも、必要な時にはちゃんと限りないおかげが受けられる。そういう例えばおかげ受けられる事を、私は分限者と言う事。人より一年遅れて分限者になる。それは普通で言う。金満家とか分限者はありますよ。けれどそれはね、使いなさると使いなさっただけそれは減るのです。所がね使うても使うても減らんおかげを私はおかげというか、一切のものに恵まれる事が私は分限者という風におもうです。
そこで皆さんが本気で我慢我欲、ああ自分がこんな我慢我欲でおかげ頂かれるはずはなか。お金が欲しゅうして欲しゅうしてこたえんという間は、神様は絶対下さりはせんです。かと言うて皆さんの場合ですよ。さあ明日いくら支払いがある。明日はいくら手形がある。そこのところのお繰り合わせは願わにゃならんけど、それだけではつまらん。もう例えば、明日支払いとか、手形とかとはですね、お願いせんでも神様の方が先回りをしておかげを下さるようなおかげを頂けというのである。
それにはね、今の中に、一つ我慢我欲を出さずに、人より一年遅れて分限者になるような気持ちが先ず大事だと。そういう気持ちがです、どうして生まれて来るか。信心の稽古をさせて頂くことがです、真実自分自身が助かることのために精進する。その有難いことのためにの心が、我情もなく、我欲も何時の間にか消え去ってなくなって行くおかげの頂けるのは、その有難いという心。
昨日、合楽会で大和さんが、僅かの時間でしたけど、最後に発表しとられましたが、最近、自分の心の尽くされるだけ尽くす事に努めております。そして尽くさなければ馬鹿らしいことが分かって来た。尽くし抜いた時だけにしか喜びは与えられない。簡単にそのことだけ言うとられます。自分に手心を加えて尽くすようでは喜びは湧いてこない。自分の持っておる真心を、心の限りを尽くさせてもらうと言う所からしか喜びは与えられないのだと言う事をこの頃は体験したと言うておられます。
信心しよるけんこの位の事は真を尽くさじゃこてと言う事ではなく、もう限りない心で尽くさなきゃならん。これで良いと言う事はない。それでも尚且つこれで良いと言った事はないと言った様な生き方にならなければ馬鹿らしいと。信心させて貰うなら、そこからしか喜びは与えられんようですねと言うて、昨日体験発表をしとられます。そこでです、例えば私がいわゆる米やら、酒やらお金やらのことをね、いまこそ久富さんが握っとられますから、私のところにはもらいにはきませんお金を。
けども一年前までは、それこそ豆腐一丁買わせて頂いても、一々ここに貰いに来なけりゃいけません。貰いにくるというか、ここに貰いにきても、お届けがありますとまた来にゃいかん何遍も。例えば百円の金貰いにくるのに、何遍も何遍もここにお金を貰いに来なけりゃなりません。そりけんほんに私には信用がなかけん、「せめて金の千円か二千円くらいいつも持たせてもらうとほんに良かばって」と家内が言いよりましたが、家内が、私には信用がないと言いよりましたけど。
そげんしてからでもいわば、お金はね自分のことのために使うお金はね、百円の金を使うでも、千円も万円も使う心持ちが、段々心に出来てきた。だからこの男にはどがしこ金を持たしても良いと、神様が私を思いなさったじゃろうと思う。この男にはどがしこ、成程酒は好き、毎晩私は大体酒屋ですから。けれども私はね、自分が晩酌するようであっては神様に相済まんと思った。お客さんがある時は、絶対お相伴致します。けども自分から、言わばお酒を飲もうと思わない。
これだけの沢山お米を頂いとるけん、三度三度ご飯を頂こうとは更々思わない。ですから、もうこの男にならば、いくらお米を積んでやっても、いくらお金をやっても、お酒をいくら、それこそ酒蔵立てんならんごとお酒を集めてやっても、それで失敗するようなことはないと見極めがついたところから、神様は限りないおかげ、いわゆる分限者としての徳を下さるのじゃないかと思う。この御理解を頂いて、信心しよりゃ一年も二年も遅れてから分限者にならにゃならん。
いいえ例えばおかげおかげという訳はない。一年遅れても二年遅れても、十年遅れても分限者にはなりません。信心しよるといつか分限者になると。絶対ないです。心の我慢我欲が取れない限り、濡れ手に泡の掴み取りという気を取らないかぎり、そういう心の起こる間は、まずまず自分は分限者になれないんだと思って間違いないです。それでそういう例えば我慢我欲が取れるような生き方という、修行ということがです、いよいよ工夫をして、探さなければならないと言う事。
言わば大和さんじゃないけれども、自分の真の限りを尽くさして頂こうと、その向うから頂けるところの有難いという心、信心の喜びというものが与えられる。そういう喜びが楽しくなって来なけりゃならん。同時にです様々な工夫をしなければいけない。昨日朝の御祈念を終わって、北野の堤清さんがお届けをされました。あるどうでもこうでもおかげを頂かんならんという問題が、堤さんのお宅にある訳です。
ですからこれは一つ修行させてもろうてお願いせにゃと思うて、昨日の言葉に、昨夕ですから、昨日の晩寝まして頂く時に、私が凡夫でございますから分かりません。どうぞお夢の中にでもどういう修行をさせて頂いたらよいかお知らせ下さいと言うてお願いして寝んだ。そしたらお夢を沢山頂いたけれども、それはぼやけてきたけど、ここだけははっきり頂いたというお夢が、先生、こういうお夢を頂いたという。それは夢の中に現われた電話ボックスがある。
そして誰かがそこに入れと言われるけど、入るところがない、その電話ボックスの中に。ところが小さい穴が一つ開いておるだけである。そしたらまた誰かがその穴から入れと言われた。こげな穴からは入られるもんかと思うたら、手から先に入れろと言われた。そこから穴の中に手を入れられたら、身体ごとズーッと入っていったというお知らせ。それから私、それを聞いてから、ほんに神様ちゃ有難いお方ね、素晴らしいことをお知らせ頂いたねと申しましたことでした。
電話ボックスと言えば窮屈な中です、あれは。例えば今日私が申します、もうこれからこんなあばら屋から以上のところに住もうと思わないとか、三度の食事を食べようとは思わないとか、とてもそんなことは出来んというのが、その小さな穴じゃないだろうか。ところが本気で私がその気になったら、出来たと言う事なのだ、本気で手からこう入れたところが、グーッと身体ごみ入っていったというのである。
そこでそういう修行を神様が求め給うわけじゃないけれども、私どもを出来るだけ窮屈な中に置かせてもらうという修行が大事だということになってくる。そこでそれを具体的に詳しく言えば限りがないのだけれども、清さんこれはこういう訳、例えばならあんたが煙草を二十本飲みよるとするならばです、その二十本の煙草を十本でやめようという、二十本の中から十本の中に入ってしまうことは自分を窮屈にすること。
お酒をあんたが毎日二合飲みよるならば、もう一合以上はどんなことがあっても飲みませんと言うて、窮屈な中に入っていったら良い。今まで例えば五時間寝よった睡眠時間をです、四時間にしようという気になったら良い。神様にね今まで五時間寝よったのを四時間にさせて頂きます。二十本の煙草は十本にします。二合の酒は一合にします。一月小遣いを一万円使いよったのを五千円にします。まだまだそれこそこの修行はもうどれだけでも出来ますことなんです。
私の二十年前の神様にお誓いしておる言葉なんか、第一私は大変唄が好き。けれども唄も唄いません。たまには素晴らしい唄の一つも唄いたいこともあるけれども、唄も唄いません。三味線も握りません。読み物という読み物は絶対読みません。壁に貼ってある、壁紙に張ってある字でも読みよると神様はほらと言うて下さる程でした。もう自分というものを出来るだけ窮屈な中に落とし込んで行くところから、神様に対する願いとか思いというものはいよいよそれに反比例して大きくなって行く。
神様を思う一念というものはいよいよ強うなって行く。だから皆さん電話ボックスの中に入ると言う事。そういう窮屈な中に自分を置くと言う事。それを神様が喜びなさるわけじゃないけれど、いわゆる我慢我欲というものが出らんことのために、その窮屈な中に入ると言う事。デパートに行ってこれを買いたいなと思うても、もう買いませんと決めたら買わんのですからやはり窮屈です。
私どもは本当に全ての点に恵まれさせて頂いて、私と家内とがもう二十何年前に、神様に誓わせて頂いたことは、布一寸買いません。米一粒買いません、下駄一足買うて履くことはいたしませんというのが家内と私の神様に対する誓いですけれども。おかげを頂いて、そういう布一寸買いませんなどとよう神様に誓いが出来たと思って、そういう窮屈な中に入った。ところがどうですか、神様がもう限りなしに着物は恵んで下さる。成程米一粒買わんでも次々に神様は恵んで下さる。
けれども、近頃から私はいっちょ恵まれんもんがあるなと思った。この頃御本部参拝する時です、もう何年前かに家内がよそ行きの草履を頂いとりましたら、いつでもあればかり履いている。今度も私は立派な着物は着とるばってん、草履だけは下駄やら草履はもろうとるけども、よそ行きの物がない。だから家内がどこに行くにもあれを履いて行くのを見てから、ははあこれだけはいっちょ家内が足元のところを改まらなければならんことがあるじゃろう。何でも下さらんはずがないと思うとる。
御本部参拝の時はこれと決めとる。皆さん気のつかんかも知れませんけれども、草履は何年も前の徒と言ったふうですいつもあれを、あの草履一つしか履いとらん。上は立派な着物を着とるばってんけれども、それなら一足買わんかとは言いません。自分も買おうとも言いません。自分を窮屈な中に窮屈な中に押し込んで行く。そこに今までと違った大坪総一郎の型ではない、違う型が、ここに型が出来るわけです。同時に電話ボックスということが素晴らしいでしょう。
清さんそういう修行をさせてもらうとね、いかにも窮屈なごとあるけれども、自分の心は世界中に飛躍する心だけは、私はこの畳半畳の中に座らして頂いて、世界はわが心の中にあるように、自分の心はもう天駆けり国駆けり、どういうところにでも、世界の隅々にまで自分の心は走っておる。だから必要な時には、必要なところに、ちょっと五十万いりますよと、神様に電話掛けたら、神様ははいと言って持って来て下さるようなもんです。その電話ボックスと言うことが素晴らしい。
いながらにして自分の要件が済むのです。必要なものは向こうから配達してくれるのです。電話ボックスとはそういう意味ですよ清さんと言うて昨日申しました。もうこれは自分で出来ないと、ああ窮屈ですよと言わず、する気になったらするっと入れるのですから誰でも。だからお互い我慢我欲のないものはない。我慢我欲のないものはないけれども、もう我慢我欲は致しませんと神様に誓った以上です。
もう我慢をせんで済む、我欲を言わば初めの間は窮屈か知らんけど、一生懸命そこに気張らして頂いとる間に狭い窮屈の中に、本当の信心の有難さが分かってくる。しかもそこから自分の思うところに電話掛けられる。自分の思いというものが神様に通ずることが出来る。そういう意味でここんところの御理解の一番大事なところは、我慢我欲は出来んぞと信心すれば。そんためには一つ自分を窮屈なところにおいて修行である。稽古をなさいませ。人よりか一年遅れて分限者になる気にならなけりゃいけません。
人を掻き退けてでも儲けることのためにならといった心を棄てねばいけません。お先にどうぞ、先にどうぞとばかりではいけません。自分自身の我慢我欲の段々取れて行くことの出来る信心、または喜びがです、段々身に付いてくるというおかげ。気侭我侭で、成程どこへでも飛んで回れば、飛んで回れるけどそういう自由自在なお許しを頂いておっても、窮屈なおかげしか頂いていない人がどのくらいあるか知れません。
電話ボックスの中にあっても、身は畳半畳の中に座っておっても、自由自在ないわゆる自由無碍とでも申しましょうか、無尽蔵と申しましょうか、限りないおかげに恵まれれる道がある。そういう道を体得させて頂けよというのが、私はこの八十三節だと思う。いわゆるお互いが本気で、信心でいうところの分限者にならなければいけない。使うても減らない金百両が頂けれるおかげを頂かなけりゃいかんと言うこと。
いわゆる心の長者である。いよいよそのために豊かに、大きくなって行かなければならないことは勿論。そして昨日あたりの御理解を、もう一ぺん頂きなおしてご覧になると、もっとはっきり分かってくると思いますね。それこそ自分の爪に灯を点すようにして貯め上げたおかげ、儲かることのためなら、それこそ本当に人の茶わんでも、叩き落としてでもといったことが、平気でやってのけてなった分限者というものは。
絶対使えば使うただけコロッと減る。これは分限者、だからそういうのは本当のことを言うたら分限者とは言えない。私が今日言うのは、我慢我欲を外して分限者になる道をですね、教祖金光大神教えておって下さる。だからそこのところの焦点を本気で置かせて頂いて、心の限り、真の限り尽くさして頂くところから、喜びを頂かして頂く喜びの信心。窮屈の中にあることをば有難いと分からして頂く信心。
そこから無尽蔵のもの、限りないお恵みに浴して行くことの出来るおかげ、そのおかげの頂ける人を私は本当の意味での分限者の徳だとこう思います。人より一年遅れて分限者になれと言うと、信心しよると馬鹿らしいことあるけれども、私が一番初めに申しましたように、私の例えば小学校の時の友達をあれこれ思うてみると、皆頭も良かった。商売も上手じゃった。これは違わん、儲け出すと思っておった。
成程儲け出してはおろうけれども、私くらい儲け出しとるものはおるまいことある。儲け出しとると言う事は、銀行にこれだけの金を貯めとると言う事じゃなくて、もう限りないおかげの受けられるものを頂いておるという意味においてです、私が一番分限者になっておる。してみると、人よりも遅れるどころか率先して、いの一番に私がおかげの頂き頭と言う事になるのじゃないでしょうかね。
どうぞ。